分け隔てるものについて

前回のブログ更新が2020年7月のことだから、しばらくのあいだ纏まった量の文章を書かないでいたら、あっという間に2年以上も月日が経っていたことになる。この間、わたしが海に浮かんだり部屋でぼうっとしているときによく考えていたのは、人と人との避けがたい断絶、つまりここ数年よく耳にした「分断」という言葉と、われわれが幾らかの文脈で「分断されて」いるとして、だとしたらどのように生きるべきか、ということだ。

肌の色や国籍や性別が違うだけで喧嘩をする、ということなら、もう人間はずっと以前からそうした生活をしてきたのだから、いまこの時代においてあらためて「分断」という言葉を使うとなると、いったいわたしたちは、今、なにを分たれているのだろうかとあらためて考えることになる。
インターネットの登場で人々のつながりが薄くなり、大量の情報や人(の意見)にアクセスできるようになったことから、都合のいいものや気に入ったものだけを選択して手に入れるようになり、自分の興味のない人や事物、ましてや反対の考えなんかにはほとんど触れなくなってきた。それで、自分の趣味や性格に合う人たちだけのクラスタ(小集団)を作るようになったといわれている。確かに、SNSなんかを見ていると、誰かに優しい言葉をかけるよりも喧嘩をしていることのほうが多く見えるし、自分の守備範囲以外の人と交流する機会は極端に減っているように思う。

それが分断の原因、もしくは結果なのだろうか。それが分断されている、ということなのだろうか。


“映画「ロッキー・ザ・ファイナル」より。少し年をとったスタローンの哀愁が他人(ひと)との距離を思わせる”

今のタイミングで、いやいつだって、政治の話をするのは気が重いけれど(と、思うことそのものがすでに新しい時代の感覚の産物かもしれない)、アメリカがドナルド・トランプの登場で真っ二つに分断されたことは記憶に新しい。どんな状態かというと、お互いの政治思想を持つもの同士の意見があまりに真っ向から対立しすぎ、話し合いにすらならないような感じ。まさしく分断されている、という感じだ。「なぜそんな当たり前のことがわからないんだろう?頭イカれてやがる!」みたいなことを、口には出さずともお互いに思っている、みたいな。

もう一つ例を出すとしたら、新型コロナウイルスワクチンに関してで、「コロナウイルスの蔓延を食い止めるためにはワクチンを打つほかにない(ことは当たり前なので打たないと言っている人がたくさんいるのが信じられない)」と思っている人たちと、「得体も知れないワクチンを打って将来何があるかは全くわからないのに、ちょっと大変な風邪にかかるほうがよほどマシ(なのにワクチンを半強制するのはもはや人殺しと同じだ)」と思っている人たちと、ざっくり二つに分かれた。

どちらも共通点は「お互い全く分かり合えず、譲歩する点がなく、するつもりもないこと」が共通点だろう。
サーフィン界に分断を見つけるとするなら、ライフスタイルとしてのロングボーダーと、アクションスポーツとしてのショートボードの対立だったり、ローカルとビジターの問題だったりするだろうか。
21世紀的な考えでいけば、「海は誰のものでもないのだから、自由に遊べるべきだ」というのはすごく真っ当な気がするけれど、複数の人間が一度に海に入るので、ルールやマナーがないと楽しめなかったり危険だったりするのがサーフィンという遊び。ひどい時には命にも関わるのだから、なんでもアリじゃないよね、ということで古くから慣れ親しんだ海を守りたいと考える人もいる。自由と平等というのは本当に難しい。


“「この海は誰のもの」論争に終わりはないけれど、人間が誕生するウン十億年も前から海はそこにあったのよ、と言われると、もうどうでもいいような気がしてくる。そんなことよりとにかく壊さないこと \pic:2018 宮崎県の海上にて”

少し話が脱線したけれど、「分断」というからには、どことなく「絶望的に分かり合えなくて」「話をすることも難しい」ような決定的な裂け目のようなものを感じる、それが分断だろうか。政治や社会構造の大きな話から身近な友達との喧嘩まで、「分かり合えない」ということを礎に裂け目は確実に存在する。そして、現代では、「話の通じ合ない相手とわかり合おうとするのは無駄」だという風潮もある。確かに、現代人は多量の情報にアクセスできるあまり処理しなければいけない情報が多く、決定的に分かり合えない人たちと話をするのはそもそもお互いに時間/労力の無駄だ、という意見はすごく合理的な感じがしてしまう。
それで単純に意見の合わない人とは「話さない」「絡まない」で、すすーっとフェードアウトしていく、というのは一見問題がなさそうに見えるけど、選挙だったり、事件だったり、戦争だったり、疫病だったり、緊急事態のときにそれが露見すると(もしくは分断が浮き彫りになったせいでそれら緊急事態が発生する)、単に悲しい気持ちになったり悲しい事件が起きたりする。映画「ジョーカー」では、貧困と病によって社会から断絶された男が狂気的な殺人者になっていく様子がありありと描かれていた。世界と隔絶され、別の世界の情報を取捨しないで生きていくのは、一部の専門的な研究や求道者スタイルには向いているかもしれないけれど、社会生活を営む上でそんなに周りが敵だらけでいいはずがない。

もう21世紀なのに、一体いつまで私たち人間は人間同士で傷つけあうのだろう?これを書いている間にもウクライナとロシアは戦争を続けているし、日本では安倍晋三が殺されるという酷い事件が起きた。

分断に対抗するような位置づけの概念としては、SDGsとか、ダイバーシティといった言葉をよく耳にする。それぞれ「持続可能な開発目標」「多様性を容認すること」で、その字面からして「分断」とは対照的な概念のような気がする。
両者はずいぶんと耳障りの良い言葉ではあるが、そもそも本来地球は「持続可能」だし(46億年ぞ!)、「多様」な存在(絶滅した種も含めれば、多様なんて言葉は生やさしいかもしれない)を容認してきた。つまり人間が社会を構成するうえで、近年「分断」が明るみに出て困っているから、それらふたつを持ってして社会をより良いものに変えていこう、という動きなのだけど、果たしてそれらで社会は良くなるのだろうか?
わたしの答えは、YesでもNoでもなく、うーん…という感じになる。方向性は間違ってはなさそうだが、もう少し別の目線でのテコ入れが必要そうに思える。

そもそも、分断というが、これまでも人間はずっと宗教や人種や国家という枠組みのもと、争いをしまくってきた。有史以来、戦争のなかった時代があるかといえば、なかったろう。では現在の分断と、かつての争いのなにが違うのだろうか。


“きのこの山かたけのこの里か、なんていう話で世界を二分できてしまう。わたしはこの「きのこたけのこ戦争」というのが本当に嫌いで、冗談でもそんなことでひとと争うな、と思う。その点、猫はいいぞ。猫は心の底から「そんなことはどうでもいい」と思っているから \pic:以前の自室にて”

現代の社会は、分断されていることは元より、分裂病っぽい性格がある。この手の話も好まないけれど、わかりやすい例だから消極的に採用すると、コロナウイルスは中国が陰謀として世界に拡散したものだという「証拠」みたいなものはインターネットを検索するとたくさん見つかるし、アメリカの責任だという「証拠」も見つかる。
ワクチンの副作用がいかに危険なものか、もしくはワクチンを打たなくてはコロナを食い止めることができないという論説が「○○大学の権威である先生が論文で言っている」というお墨付きでいっぱい見つかったりする。

どちらがいいとか悪いとか、正しいとか誤っているなどという話はさておき、ひとつの事象に対してですらありとあらゆる情報が錯綜して、何が本当かは誰もが判断できなくなっている。
というより、何か一つのことが正しいと思うこと自体がすでにずいぶんと時代遅れになっていて、物事には色々な見方があってどの角度で見るかによって全く見え方が違う、というような考え方が当たり前になってきた。
それは良く考えてみると当然のことで、例えばわたしという人間を取ってみても、正直で真面目なところもあれば、めんどくさがりで卑怯だったりもする。多様性、というのは人それぞれ違う、ということよりももっと以前に、「人間ひとりひとりの中に色んなカラーがある」ことの担保から始まっている。わたしはある人からみればとてもいい人かもしれないけれど、ある人から見れば悪い人かもしれない。わたしの意見は、今という時代にはしっくりくるかもしれないけれど、100年後には大層時代遅れかもしれない。人、物、事、全て「いつどこからどんなふうに」見るかで色合いが変わるのである。しかも全てのものは変化する。
だから、「あれは正しい」「あれは間違い」と仕切りを行うこと自体が無意味だ、という社会になってきた。
宗教に例えてみると、「キリスト教であろうとイスラム教であろうと構わないです。信じるのは自由ですよ。しかし、あなたの宗教が絶対だと押し付けて他人の信仰を否定するのはやめましょう」という感じ。それはよく言えば選択肢が増えて、かつその選択を容認してもらえる社会だけど、悪く言えば色んなことがありすぎて何を根拠に何を信頼したらいいかが見えにくくなってしまっていると言える。

死ぬほど情報が溢れかえっている中で(そしてこんな時代は初めてだ)、なにを信じるかは自分で考えましょう、というが、それは結構不安定で難しい。情報の数が多すぎるから選ぶのが難しいし、すぐ反対意見は目に入るし、ましてや全ての意見を目にすることは不可能だ。よく練られた複雑な考え方よりも、キャッチーでわかりやすい意見に意識を持っていかれるし、すぐ隣に座っている人がまるで想像もつかないことを考えているかもしれない。だから「自分の意見を持つ」ことも、「他人の意見を信じる」こともずいぶん難しく、それがいつの間にか、他人に興味を持たない理由に変わっていく。
そうした、はっきりと目に見えない人と人との対立、やり過ごされているけれどそこに確かにある不信感と孤独感。国や宗教や人種が真っ向から意見を対立させてぶつかった昔の社会よりも、資本主義と情報化社会が進み多様な価値観が許されるなかで現れてきた小さなそれぞれのひずみ、その分裂症的なまとまりのない人と人とのつながり方が現在の分断の正体で、時折あらわれる「ドナルド・トランプ」や「ワクチン」がそれらを鮮明に映し出すとき、「社会は分断されている」と喧しく問題視することになる。
例えば、「1000億円の予算では足りませんから、100億円増額しました」と言われてピンとくる人はどれだけいるだろうか?「100万人のひとが亡くなりました」と「1万人の人が亡くなりました」の差は?悲しみの量は?「あなたのお給料が3万円増えます」「隣のご家族のうち1名が亡くなりました」は?そう、ひとは多すぎる数や多すぎる情報を処理するのが単純に苦手でもあるのだが、日々そんな数字や情報を相手に仕事をしたりニュースを見たりしなければならないのが現代社会。だから人と人との間には、想像力を働かせる余地が少なくなり、人間関係は希薄になっていく。人間関係はリアリティを失いつつあるけれど、やはりわたしたちは人間なので、人と人との交流やぶつかり合いを避けることはできず、そうしたひずみに佇むのが「分断」。日ごろは肌身に感じず有事の際にその断絶に気づくという特性上、気づいた頃には裂け目が大きくなっているという特徴もあり、なかなか扱いに困る性質がある。


“真っ二つに折れてしまったサーフボード。裂け目というのは痛々しいだけでなく、元通りに修復不能なことも多い \pic:2022HANAにて”

しかしわたしは思う。そもそも、「他人と分かり合えないこと」は、絶望なのだろうか?みな、「分かり合えないのは悲しいこと」として諦めてしまうけれど。わかりあえない他人をそっくり無視するような風潮の現代だけど、想像してみれば良い。結末を知っている物語が面白いだろうか。宇宙の端っこは全て見つかり、人間が既に到達していたとしたら、空を見上げてロマンを感じるだろうか。考えていることが全て筒抜けの他人と、語り合えるだろうか。趣味や思考が全部一致して、ほとんど自分と同じと言ってよい人間と、恋ができるだろうか。
そう、つまり、わかり合えないことは絶望ではなく希望である。未知は楽しみであり、好奇心であり、人と違うということがそれだけでお互いに幸せの源泉となる。つまるところ、意見の違う人間との交流やすれ違いを、先送りにすることなく真正面から見つめ直すことができれば、差異が「分断」という傷になるまえにもっとよいものが見えるのではなかろうか、ということだ。私たちはいつだって誰かの行動や発言に傷つくけれど、それを補って余りある愛や喜びを与えてくれるのも、人間だ。


“人から受けた傷は人で癒せ、という言葉は、私が友人から頂いたとても大切な言葉で、今もずっと胸の内で輝きを失わない。人に優しくされた経験は、人に優しくすることを可能にし、次の困難に立ち向かうエネルギーとなる \pic:2019ISA宮崎大会にて、フィリペ・トレドとわたし”

ここまで来ると、SDGsや多様性の確保という概念に欠けているものがおぼろげながら見えてくる。SDGsのカラーホイールは17色で構成されているが、当たり前だが、世界には無数の・無限の色があり、とても17色で(その問題や取り組みの全てを)表すことはできない。液晶ディスプレイに表示可能な色の数はそれこそ膨大で既に数える事もできないが、無限ではなく有限で、この世の全ての色を表示させることはできはしない。
多様性の問題でよく話題になる「LGBTQ」だが、性的マイノリティの数は5つだろうか。これからもっと新しい形の性のあり方が登場するにつれ、その数は増えて行きはしないだろうか。母親のことが好きでたまらなく、親のように接してくれないと愛せない「マザコン」は?同様にブラコン、シスコンなどは?異性が好きという点でノーマルセクシャルなのだろうか。SMクラブで縛られないと喜びを得ることのできないひとは、性的マイノリティではないのだろうか。

それらSDGsや多様性といった概念が抱える(もしくは含むことができていない)問題というのは、対象が「無限に」かつ「流動的に」存在するということだ。貧困をなくしましょう、地球環境に配慮しましょう。非常に真っ当だと思うが、一体どのレベルのなにを持って「貧困」だといい、なにを持って「環境にやさしい」のだろうか。そんなものは、無限にある。男性の上司が女性の部下に「ハンカチを貸して」というとき、それはセクハラだろうか。そんなものは関係性による。自閉症に理解のある社会がやってきてほしい、とは多くの自閉症の子を持つ親の願いであるだろうが、では、ダウン症は、その他の発達障害はどうだろうか。うつ病のことをいまだに「そんなものはやる気の問題だ」と唾棄する人もいるが、それはうつ病に対して無理解、無知識だからそのようになるのだろうか。もちろん半分はその通りで、勉強すればある程度対象に近づくことは可能だけれど、それでは世界に対する理解と共感のために一体どれだけの勉強が必要なのだろうか?

つまり目の前の人に優しくすればよい、ということだ。目の前の人が、自閉症であれうつ病であれ、どんな属性であれ、無条件に理解と共感を持って接すればよいだけだ。そもそも人間存在は多様であり、あれがいいとかこれはダメとか、一つずつ整理して考えていくのは、数が膨大すぎるし、事象自体が変化するので不可能だ。それより以前に、人間そのものの存在を好きになっていさえすればよいのだと思う。そうすれば、どんな事情であれ、たとえその人にしかわからない苦しみであれ、汲むことができるし、さらに癒すことが可能かもしれない。もちろん、人に優しくするために自分のことをむやみに傷つける必要はない。人間に愛を与えるためには、まず自分自身に優しく、自分自身を愛する必要があるからだ。自分は不幸になってよい、と思う人間に目の前の人間を真に愛せるだろうか。だから自分に優しくし、目の前のひとに優しくする。世界中の人がそうすれば、世界中の人は幸せにならないだろうか?SDGsや多様性の保持という考えかたに根本的に欠けているものは、社会のあり方を目指す中に「目の前の人間を愛せ」というこの一文が入っていないことである。
うつ病の苦しみがどういうものかわからなかったら、聞けばよい。聞いてそれをそのまま受け入れればいい。自分の発言がセクハラになるのかどうかわからなければ、聞けばよい。共感と対話、それで足りないシーンというのは、人間同士の営みではそうそう起こらない。


“「相手が嫌だと思ったら、その行為は悪」と考えるのは、典型的な思考停止で、対話と共感をまるで無視していると思う。AとBはよくてCとDが悪い、と覚えるのではなく、何が、どう、相手に思われるのか、を真剣に考えることが共感の第一歩。もちろん、うまくいかなくて傷つくこともあるけれど。注1  \pic:2019燃えるような秋空”

(注1:何をどうしたら他人にどう思われるか、を人間関係で学ぶのは基本的には子どものうちなのだと思う。子どもの遊びの人間関係の中で間違いや傷つくことがあっても、それほど大事に至らないことが多く、身を持って学ぶことができるからだ。大人になってから職場の人間関係や恋愛で大きく間違えた事故を起こすと、双方ともに大変な痛手になったりするから、「人格形成は子どものうち」みたいな言葉というのはそれなりに間違っていないだろう。ただ昨今は子ども同士でも随分とドライな関係が多くて、人間との距離感を掴めないまま大人になってしまうことは多い。「AとBは良い。CとDは悪い」と覚えることで対処療法的に場を凌いで行くことはできるが、せっかくなので「なぜそうなるのか」もとことん考えた方が良いと思う。大人になってからでもいくらでも学べるし、傷ついたり喜んではしゃいだりすれば良い)

理想的な社会というのは、これははっきり言って、「人が人を殺さない社会」ということに尽きる。物理的に命を奪うことはもちろん、立場や権力を利用して相手のパフォーマンスを削いだり、個人的なやり取りで精神的に大きなダメージを与えることも含まれる。広義で言えば地球環境の破壊で未来の人が豊かな自然を享受できなくなることも含まれるだろう。幼い頃の家庭環境やトラウマが原因で人を傷つけたり騙すことに抵抗がなくなってしまうこともあってはならない。そして地球環境も人間も、望まない形で受けたダメージを回復させることができれば一番だ。だからSDGsが目標とする、貧困をなくすとか、差別をなくすとか、そういうことは全て何も間違ってはいない。

もう一つ気をつけたい/気をつけてほしいのが、考えたりすることが得意だったり、勉強ができたり、わたしのように書いたりするのが得意な人たちは特になのだけれど、自身の持つ知性もまた暴力になりうる、ということ。腕力のある力持ちが、重たいものを運んだり土木作業をこなせたりする代わりに人を殴って傷つけることができるように、知性もまた正しく使えば人の役に立つけれど、そうでなければ腕力と全く同じように人を傷つけうること。それは何も、悪知恵を働かせて人を騙すことができる、という大層な話だけではない。相手が言い返せないように理詰めで責めたり、単に「バカだなあ」と言うことすら十分暴力的だ。今の日本の世の中は、「腕が細くて貧弱だなあ」は多少言いづらい雰囲気があるけれど、「バカだなあ」は言っていいことになっている。運動会の徒競走に順位をつけてはいけないけれど、学校のテストでは数字で点数がつくから、知性を序列化することには抵抗がないのだろうか(テストで測れる知性にも限界はあるのに)。
確かに知性は人間に与えられた唯一無二の武器だけれど、そしてそれを磨くことは人類の目標の一つに違いないけれど、同じ時代・同じ場所に生まれた人間に、アホとかバカと言っていい道理はどこにもない。かつての時代に、「お前はほんと体が弱くて貧弱で仕事のできない役に立たない人間だなあ」と罵られる時代がきっとあったように、今では「本当にバカだ、無知だ、頭が悪い、そう言う人がいるから社会が良くならない」という時代になったけれど、人間の尊厳を傷つけているという点では何も変わってはいない。ただ、「勉強しないから悪い」とか、「頭が悪いのが悪い」という言葉が少しだけ説得力を帯びているような気がするだけだ。
生まれつき体が弱いことも、環境的に肉体を鍛えなかった人も、生まれつき思考能力が低いことも、環境的に勉強に励むことがなかった人も、それでひととしての尊厳に傷がつくわけはない。だから軽率に刃を振り回さないでほしい。政治家や、タレントや、メディアや、表舞台に立っている人に向かって「頭悪いなあ」とつぶやくことは、つい言ってしまうけれど、品性に欠けると自覚してほしい。知性は正義であるとは限らない。そして、正義はいつでも正義であるわけではない。誰かにとっては脅威なのだ。正しいこと、の裏には、正しくないこと、の世界に追いやられて分け隔たれている人がいることをいつだって感じてほしい。そして時代が、環境が変わると、「ただしいこと」は「ただしくないこと」に変わる。そういう意味では世界はとても公平にできているから、偶然いまの時代の「ただしいこと」の側にいることに驕らず、「ただしくないこと」の側にいることを不幸に思わず、信念を持って生きてほしい。
「ハラスメント」の問題は、対話や反論が不可能な状況を作り出してしまうことそのものにある。知であれ力であれ金であれ、どんなものでも形を変えて抑圧の道具になりうる。「人が人を殺さない社会」、人類の大目標はそれだけでいいと思う。


“犬にも優しくしてくれよ、と思っているかもしれません \pic:2019”

そうやって考えれば、自分を愛し、目の前の人を愛することがいかに良いものか、わかる気がする。愛することは、正しいとか正しくないとか、そんなことからはすごく遠くにあるからだ。自分を愛し、目の前の人を愛し、そして余裕があったらどこか遠くのあったことのない人や、もう二度と会うことのない人のために祈ることができたら、人間としてはもう十分な生を全うしていると思う。

ここまではすごく理想的なことばかり書いてきたのかもしれない。そしてわたしはこのところずっと、この数年、そういうことばかり考えてきたように思う。今も、少し前も。
けれど、そういう風に考えていることと、そういう風に生きられるかどうかは少し別問題なのだ、残念ながら。
わかりえない、話の合わない相手と対話することに希望を持って、好んで、もちろんバックグラウンドには色々あるけれど、話そうと思ったとき、寝転がってお腹を上に向けて無抵抗で話そうと思った時に、そのお腹を踏まれてしまうというのはあることだ。そこまで大袈裟でなくとも、「正直者はバカを見る」という言葉があるように、他人に自分を委ねたときに思いもよらぬ結果に傷つくことはよくあることだ。分かり合えない他人と話すのを嫌がる人は多いし、わたしを含めたみな、つい他人を攻撃しがちだ。
いろんなことを考えてもうまくいかないことは山ほどあって、けれども、分かり合えない他人と話し合って失敗するという経験は、厳しいけれど、それもまた得難い経験となる。目の前の人とこれほど分かり合えないのなら、そりゃ人間は肌の色や宗教で戦争するわな、ということを肌身で感じられる。だから、だからこそ、大変だけれども諦めてはいけないのだろう、とも思う。それに少しタフさが身につく。なにかが壊れていても、全てが壊れているわけじゃないし、それに完璧なもののほうが少ないよね、と思える。諦念や、問題に鈍感になる能力ではなく、過酷さに対しての耐性がほんの少しだけ身につく。けれど、人間は疲れてしまうし気力も体力も無限大ではない。疲れたら休息する時間が必要だし、心が折れたら、もう一度その翼で飛ぶためにはエポックメイキングな回復が必要になる。
考えることにも少し疲れたから、この数年でいくつかブログ記事を書いたけれど、それもしばらくお休みしようと思います。まあ、また1年後にはなにか書きたくなっているのかもしれないけれど。HANAの名前を冠したフリースペースで適当なことをやらせてもらえている今の環境に非常に感謝しています。


“「僕は同じ思想に生まれるよりも、同じ時代に生まれる方がよっぽど近いと思う。だから、そんな訳ないと思いつつも、感情と理屈に拒絶されようとも、こう信じたい。今、たまたまここに生きた全員は、たとえ殺し合う程憎んでも、同じ時代を作った仲間な気がする」コミックス『チ。ー地球の運動についてー』第8集より”

どれだけ喧嘩をしても、分かり合えなくても、生きているからには/生きているうちに、少しでも多く幸せになるべきだと世界中の人に向けて願っています。わたしのこうした言葉が、誰かの励みになりますよう。
旅行記、サーフトリップの記憶などは、以前のものも含めてできる限り残しておきたいので、そんなものはぽつぽつ書こうと思います。

それでは。

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