サーフィンについて語るときに我々の語ること

 

 

おそらくほぼ全てのサーファーがなぜ波に乗るのかという問いに出会っている。楽しいからとか癒されるからとか自己研鑽とか、答えはざまざまで、一つの答え行きつかないことは歴を長くしたサーファーであればあるほどよく知っている。
わたしがなぜサーフィンをするのかというと、自然とのコネクションを強く感じることができて、それが最高に気持ちいいからだ。

 

“人はなぜ海を見るのだろう。海についてなにを話すのだろう?”

 

現代のわたしたちは西洋近代の折り返し地点にいる。なぜここが折り返しなのかと言えば、みなが自由と豊かさを求めて働き続けて、近代文明を見事なまで発展させたにも関わらず、そのことでさほど幸福度が上がっていないからだ。朝の満員電車で笑顔の人を見つけるより、海や山にいる人たちに笑顔を求める方が簡単だし、街の本屋に行けば真の豊かさとはなにか、という問いが溢れている。例えば、働いたあとに同僚と酒を飲む時間がなにより楽しい時間だとしても、それは近代的な文脈においてとは限らない。農作業のあと、農夫仲間と飲む酒も最高に美味いだろう。近代においてわたしたちが豊かだ、幸せだと思ってきた事柄の多くは非・近代にも存在していて、ならば血の滲むような努力で近代を維持する必要はないのではないか、という回帰的な考えを持つひとたちも多く出てきた。

 

“ぼくたちはいまこの一瞬一瞬を生きている。それは昔のひとだって同じ。”

 

西洋近代は、「世界とは理解・分析が可能なもの」という信念をもとに発達してきた、たかだかこの500年くらいのものだ。ただ我々は、それをずっと頼りに生きていた。「全ての事象は科学的に説明が可能だ」「価値とはお金で交換可能である」「人々が一つのことを共有するための方法は、言葉によるコミュニケーションだ」それらを信じ続けていた。人々がより自由で平等に生きられるため、誰しもが交換可能な「貨幣」や「言葉」や「科学」を用意して、それらで全てを説明しようとしてきた。貨幣からは市場が、言葉からは法が、科学からは物理学や医療が生まれた。世界を科学的に解明することができれば、人類はなお豊かになるだろうと信じて。

しかし、貨幣や言葉や科学がこれまでにない勢いで発達し続けたにもかかわらず、世界の理解・分析は進まないし、豊かさはその定義を少しずつ変容させているだけで、本当の意味で以前より豊かになっているのかどうかは、誰にもわからない。だからなおのこと、人々は豊かさを求めて頑張ってきた。もっとよく分析をすれば、世界が解析できて、幸せになるだろうと。まるで回し車を回転させ続けるネズミのように。
ところが、いま、その西洋近代のあくなき探求の無限ループがようやく終わろうとしている。

近代自然科学は発達に発達を続け、その結果わかったことが、世界の真理でも真の豊かさでも人々の有機的なつながりでもなく、「なにもわかっていなかった」ということだったからだ。
実際問題、お空を見上げれば飛行機は飛んているけれど、飛行機がなぜ飛べるのかは実はまだよくわかっていないし、iPS細胞だって「そうやれば万能細胞ができる」ということはわかっていても、「なぜそうすれば万能細胞ができるのか」はわかっていない。わからないことだらけなのだ。

 

“遠くの空を飛ぶ二尾の飛行機。なぜ飛ぶのか知らないまま、どこかへ向かうのだろう。”

 

こんな話がある。人が損得勘定を抜きに誰かを助けたいと思うとき。道端で食べ物もなく寝ている人を痛ましいと思うとき。満足な教育を受けられず過酷な労働に従事している子どもの未来を憂うとき。人々がそうした「共感」の感情を催すとき、一体脳の中ではどんなことが起こっているのか。それを、スタンフォードの脳外科医をリーダーとするチームが調査していたときのことだ。
彼らは、共感力が高いとされるチベットの僧たちの脳波を調べようとした。いざ実験を始めた際に、僧たちがクスクスと笑いだしたのだという。最初は、電気信号を拾うための電極のたくさんついたヘルメットを頭につけている、その見た目が変だから笑っていたのだと研究者は思ったそうだが、僧たちに聞いてみると、理由はそうではなかった。僧たちは言った。「共感は脳でするのではない。心臓でするのだ。誰でも知っている」と笑ったのだ。
心臓は知性を持つ臓器で、脳から影響を受けるだけではなく、自ら考え、感じ、脳や体の他のありとあらゆる部分に信号を送り、影響を与えることがこれまでの研究でわかってきたという。そう、「共感は心臓でする」。これは、近代科学がこれまで全く暴けなかったことだ。
しかし、よく思い返して欲しい。片思いの相手を思ったとき、大切な人の訃報を聞いたとき。大切な人が、誰かの訃報を聞いて胸を痛めていることを知ったとき。人は胸を痛める。心臓のあたりが、キュッとする気持ちになる。だから、共感は心臓でする。
そのシンプルな事実を、わたし達はすっかり忘れて暮らしている。感情や思考は全て脳が行うものという思い込みがあるからだ。
西洋近代は、自分たちに説明が不可能なこと、理解した事実以外のことは、あり得ないこと、オカルティックなものと決めつけて、脇に置いてきた。でないと、世界を分析して幸せになるという目的はいつまで立っても達成しないからである。そのせいで、シンプルで美しい摂理をわたし達は忘れてしまっている。

ちょうどこの例のように、西洋近代は、自然を科学し続けることによって、自らの思慮と知見の至らぬことを、そして科学するにはあまりに膨大なーもしくは無限大のー事象があることを知りつつある。豊かさを求めて働き続けた無限ループの行き先には、「どれだけ理解したと思っていても間違ってるかもしれない無限ループ」が存在した。
西洋近代が「これが世界」と思っていたその外側にはまた広大な世界が広がっていて、一旦これまでと同じような通り一辺倒の拡張を見直さなければならない時間がやってきた。それが現在。

ここで話が戻る。そう、わたし達は、都会のビルに囲まれて生きている時よりも、緑いっぱいの森に囲まれて、青い空の下で、気持ちのよい海に佇んでいるときの方が幸せを感じられるのではないか、ということだ。近代的な豊かさ以外の豊かさの可能性に目を向けはじめた。(もちろんそんなことにはとうの昔に気づいていた人たちもたくさんいる)。
資本主義下では、みなが価値があると思うものに貨幣が流れていく。空前の山ブームやグランピングは、その端緒に過ぎない。これまで一直線に走り続けてきた西洋近代の終焉とともに、わたし達は流れるように自然へと帰っていく。近代的な豊かさに価値がないと言っているのではない。再発見の時間がきたという事だ。

 

“渋谷の夜。都会にだっていいところはある。文明は強く儚く美しい。ただ、ときおり、自然を損ないすぎるというだけで。”

 

なぜ自然が気持ちいいのか。地球が46億年前にできて、何度も火山が爆発して水蒸気から雲ができて雨が降って海ができて、大地が動いて氷河期が来て何度もなんども波が打ち寄せて岸壁を削って、生物が生まれて、たった200万年前に人間ができた(地球が誕生してから今までを1日に換算して今を23時59分59秒999…だとすると、なんと人類が誕生したのは23時58分43秒らしい。ちっぽけ!)。
生きとし生けるものもの全て、花も大地も空も水も、この自然の輪廻、ぐるぐるの中で生まれて消えゆく。人間が作る街やコンピューターやお金も言葉も全てこの大きな自然の中で生まれて消えていく。
だから、自然が好きとか嫌いとか、わたしは自然はあんまり…とか、そんなのはなくて、この地球の、宇宙のぐるぐるの中にわたしたちは含まれている。例え嫌でも、こればかりは逃れようがない。空は父であり、大地は母であり、わたしたちは自然の一部でしかない。
動物が弱肉強食のシンプルで美しい摂理の中に生きているように、わたしたちの生もまたシンプルで美しい。生きて死ぬだけ、あとは元どおり。ただ少し、考えることが多すぎて忘れてしまうだけ。

わたしたちは自然だ。だから自然は気持ちいい。

自然とのコネクションが気持ちいいのは、わたしたちそのものが自然だから。雨が降って太陽が出て花が咲く。風が吹いて森が呼吸して空気が澄み渡る。自然のアルゴリズムはあまりにうまくできていて、なるべくしていまの状態になっている。そういうふうにできている。その一筋の細い、しかし連綿と続く一本の線の上にわたし達は立っている。
例えば冬、日本の北海道の東側、アリューシャン列島の付近に巨大な低気圧ができると、暴風が吹き荒れる。そこでできた波が、重なって、うねりとなって太平洋を北から南へと横断する。ハワイに届く頃には巨大なうねりとなり、水深の浅い海底にぶつかって世界最高と呼ばれる波がオアフ島の北側・ノースショアに出現する。その波にハワイアンは乗る。
サーファーが波に乗るとき、文字通り、自然のアルゴリズムに、乗る。波の力を、水のきらめきを、わたしたちはそのときに知る。波に乗ることは、自然を感じるための最高のツールだ。


逆らうのではなく、従うのでもなく、波のするようにすればいい。サーフィンと生きることはよく似ている。
ジェリー・ロペス


そう、わたしたちは自然の一部だ。だから、必要なことは自然が教えてくれる。波にのっているとき、どちらに進むかは、波が教えてくれる。ただ耳をすましさえすればいい。波にのることと人生は似ている。

 

“冬のハワイに届く巨大な波。一周4万kmの地球が生み出すパワー。”

 

人と人も、自然を介して繋がっている。

先日、わたしは妻と離婚した。愛する人と別れるのは非常に辛いことだ。他にない苦しみを得た。そのとき知ったことは、人は一人では生きられないこと。誰かの支えがなくては生きられないこと。すでに支えられて生きていること。人に助けられるということは、なんと温かくて優しいことなのか、ということ。
誰かにとってはもしかしたら当たり前かもしれないこの事実を、わたしは本当の意味で理解することになった。それまで自分の経験を、言葉を、思考を盲目的に・真面目に信じ続けていたわたしにとっては衝撃的な出来事だった。
ただ、わたしの個人的な体験だけではなく、近代とはそういう時代だった。誰しもが「自由」で「平等」に生きていくということは、(近代国家の上に居さえすれば)一人でも豊かに生きられる、ということを意味していたからだ。
しかし、人は一人で生きていけなどはしない。

 

“移動手段や仕事、お金、食べ物があればひとりで生きていける気がする。でも、会社は誰かのために仕事をするし、そのハンバーガーは誰かが作っている。あなたは人間の両親から産まれてきて、いまも誰かの声を聞きながら生きている。”

 

わたしたちには、本当の意味で他人を愛することや、共感する能力が備わっている。それは、動物たちが大地震の前に一目散に逃げ出す能力が備わっているのと似ている。人間には、自分自身と他人を愛して、喜びと悲しみを分かち合う能力が備わっている。そうすべきだと言っているのではない。人間はそういうふうに設計されている。共感する臓器としての心臓を与えられているのがなによりの証拠だ。心臓は、そして身体は全て、自然からの美しい贈り物だ。
わたしたちが「自然」として与えられた共感の能力。これ一つで、花も空も風も大地も、ひとも、全てとつながれる。わたしたちは自然の一部で、空や大地に囲まれて生きている。いまあなたのとなりにいるだれかも同じように自然の一部で、あらゆる感情は共有することができる。人ひとりでは、なにも完成されない。わたしたちはひとりで生きるにはあまりに不完全だけれど、心臓が、身体が、全てとつなげてくれる。自然のアルゴリズムの一部なんだと、教えてくれる。わたしたちは、自然のなかで、自然としての他者と生きるように造られている。愛することは、温かい。悲しみは誰かがわかちあってくれる。喜びは鳥のさえずりとともに。わたしたちはそもそも、一人で生きてなどいない。

 


わしらはやがて大地に戻る。そこに何を持っていく必要があるのかね。この世界で生きてきたことの喜びと、次の時代を生きる子どもたちに、わしらが母なる大地から教えられた美しさと感動を残してあげられれば、それで十分だ。

天外伺郎・衛藤信之『イーグルに訊け』【飛鳥新社】


 

“わたしたちは空や大地とひとつながりの自然だ。この星で生きるほかの誰かも、みな自然だ。だからつながっている。握手をしよう。体温を感じて、心臓の音をきこう。生きている自然を感じよう。身近な人とハグをしよう。7秒間のハグは、わたしが友人からさずかった大切な贈り物だ。人間には、そうして他者と共感することで幸せになる素質が与えられている。”

 

ひとはみな、生きたいように生きるべきだ。自然に生きるべきだ。嘘や飾り気のない他人と心を開いてしゃべるのが気持ちいのは、お互いが自然体だからだ。自然に近ければ近いほど、気持ちいい。話したい人と、話したいことを話そう。でも、他人のために生きるのではない。自分のために生きるのだ。自然としての自分を見つけて、自分が自然であれるように振る舞おう。それが本来の自分の姿で、そうあることが他者と・自然とのつながりを深めてくれる。

そのために、本当にやりたいことをやって生きるべきだ。なにかを我慢したり、自分に嘘をついたりすると、ひとはどんどんと自然から遠ざかってしまう。自分自身をどう扱うかは、自分自身が決める。自分の声に耳を澄ませ、自分のことを一番理解してあげて、自分を大切にしてあげること。愛してあげること。恥や外聞や他人の評価を気にせずに、欲望や社会に惑わされずに、本当にやりたいことをやる。本当にやりたいことは、目を瞑って深呼吸して心臓に聞けば教えてくれる。それでもわからなければ、海や山にいけば、風や空や大地が教えてくれる。わたしたちは、自然のなかで、自然として生きる。


“生きているだけでいいんだよ。それ以外はおまけだよ。 金銭、結婚、名誉、功績、そういうものの全部はおまけ。それがないからと言って、生きる価値がないとはならない。人間の価値は、そんなものでは傷つかない。 屈辱をバネにするな。よろこびで飛翔しろ。”
“自分の『好き』を貫く勇気。 何かを好きになる時、自分と、世界の間に絆が生まれる。その絆が、世界を『生きたい』と思う最高の希望になる。好きなひとから嫌われても、自分の『好き』を貫く勇気を。意思を。 生きることそのものが、生きがいになるように。”

坂爪圭吾 twitterより @KeigoSakatsume


 

生きることそのものが、生きがいになるように。

 

 

“サーフィンが楽しいなら、その瞬間を誰かに撮影してもらおう。あなたが最も自然でいられる瞬間を、生きている瞬間を。喜びは糧となる。明日へ、その先へ。

 

サーフボードが波の力を借りて、走りだす。水を切って、風の歌を聴いて、時に重力にすら反発しわたしたちは進む、波が進むその先へ。波に逆らわず、流れに逆らわず。自然の持つエネルギーを一身に受けて滑走していくあの疾走感と浮遊感は、なにものにも代え難い。太陽に照らされて煌めく海面に魚影を見る。朝焼けに染まる空の下で、茜色の夕空の下で、波を待つ。人生と同じ。自然に身を任せる。

生きていることが喜びでありますように。あなたにとってサーフィンが、本当に好きなことでありますように。国府の浜から、祈りを込めて。

written by Motoyasu Yamaguchi

 

“快晴の国府の浜”

 

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