昨年末、東京・新宿に滞在中のある日の昼間にはたと思いついて、2019年の抱負を「悪事に加担しない」ことに定めた。それから早三ヶ月、もう一年のうちの四分の一が終わろうとしている頃だから、一年の抱負なんていうと鬼が笑うどころか呆れてものも言えないかもしれないけど、当時の心境も含めて「悪事に加担しない」というのはどういうことか少しメモ書きを残したいと思う。
悪事に加担しない、というと、これまでは加担していたのかという質問を真っ先にいただくことになる。全くその通りで、私は無自覚に悪事に加担し続けてきた。それはこれからもきっと続くことで、私は悪事に加担し続けることになる。そして、それは私だけではなく、きっと周りのみんなも。だから、「悪事に加担しない」という抱負はすでに矛盾を孕んでいて成立せず、「どう悪事に加担するのか」と言った表現の方が適切かもしれない。
少々脱線したところから話を始めたいと思う。いま、世界で、色を染めるための「染料」が足りなくなり、値段が跳ね上がっているのだという。特に「赤」と「青」が足りないらしく、例えば自動車のテールランプを「赤」くするためにプラスチックに練り込むための赤色の染料が足りないと言った具合に、じわりと産業界に打撃を与えている模様なのだ。
それはなぜかというと、現在まで染料のほとんどを製造してきたのは中国で、環境問題にはこれまで無頓着と言った様子だった中国も近年規制が厳しくなり、工場が閉鎖に追い込まれたりしているかららしい。環境対策の設備投資もロクにせず、汚水や排ガスをバンバンまき散らしながら操業する中国の工場は特に北京オリンピックの際に話題になったけれど、なぜそうなのかというと、倫理的な問題も大きいけれど要するに「採算に合わないから」である。よくある構図といえばそれまでだが、先進諸国は「汚れた」仕事を経済的に劣った国に押し付ける傾向があり、今回の例で言えば「日本は公害なんて受け入れないけど中国で何が起きているかは知りません」という態度で染料を安く作らせまくっていたことが原因と言える。
環境保全のための法律や条文は国民の生活を守りひいては地球全体を守る(そのことがやがて自国民を守ることにもつながる)ためにあるのだから、自国は汚れちゃ嫌だけど他国は汚れてよろしい、というスタンスは筋が通らない。本末が転倒しているのである。よしんばルールを守っているとは言えたとしても、中国にも地球にも全く優しくない(どころか酷い仕打ちをしている)。
もう一つ。近年私はブロイラー(食肉専用・大量飼育用の鶏)の話を聞くたびにぎょっとすることがある。鶏肉は安くて高タンパク、味も良くて私も大好きだが、とんでもない育てられ方をしている。自然界の鶏は出荷可能な成鶏になるのに120-150日ほどかかるところ、ブロイラーたちは徹底した品種改良の末に50日程度で成鶏に成長する。1㎡あたり17羽と言う過密状態で育てられ、全体の30%は歩行困難、3%が歩行不能で1%が心臓疾患で死ぬと言うデータもある。成長促進のために栄養剤やホルモン剤を多く与えられ、伝染病対策のために抗生物質を投与されまくっていることも想像に難くない。遺伝子組み換えの飼料も使われていることだろう。採卵鶏にしても、品種改良を重ねた現在の鶏はほとんど毎日卵を産み1羽あたり年間300個以上の卵を産むことが可能だけれど、交尾と子育ての必要がある野生下の鶏は年間に数個〜10数個の卵しか産まないらしい。
*まあ、これらのことも多分に偏った知識かもしれず、私の話も眉に唾して聞いて欲しいのだけれど、品種改良や遺伝子組み換え飼料など、畜産業界にもキナ臭い話が潜んでいるのは間違いないと思う。もちろん、それは個々の農家の裁量によるところも大きく、あくまで全体の話なので各個人に対して個人的な感情を抱いているわけではないので、悪しからず。
“大量飼育のブロイラー。知らなければそれまでだが、「あまりに不自然な」状態を目の当たりにしてぎょっとすることも多い。良し悪しに関わらず、この社会には私たちの想像の範疇を超えるものがたくさんある”
いずれにせよ、鶏にしろ豚にしろ牛にしろ、もしくは養殖される魚にせよ、私たちの豊かさのために大なり小なりの「ゆがんだ」部分のしわ寄せを食っているよなあ、と言う気分にはどうしてもなってしまう。
このような話を聞くと、ヴィーガン(完全菜食主義者)たちが食肉を避けることも頷けなくもない。個人的には、野菜を食べていたって畑を作るのだから環境は破壊するし、動物の肉を食べることは本能的であり自然の摂理なのだから無理に避ける必要はない(というか避けられない)と思う。動物がかわいそうと言う理由で肉食を拒否するのであれば、人間以外の肉食の全ての動物と我々を隔てるものは「理性的かどうか」だけである点を考えなければならず、そうなれば「理性的である」ために「人間は生きていない方がいい」ことになっちゃってそれは生命として間違っているよなあと思うから、やはり私はヴィーガンの思想とは相容れない。ただ、そうしたことはすべて承知の上で、しかし私たちの取りうる手段としてヴィーガンという態度があるのだということであれば、私は大いに支持するつもりだ。もう21世紀なのだから、世界のためを思って生まれるどんな思想も不断の努力も(他人に押し付けたり他者をむやみに傷つけたりしない限り)肯定されうるべきだ。たとえそれがより良い結果をもたらそうとしないように想像できたとしても。
“Veganのためのレストランが手軽に検索できる、「Happy Cow」。牛さん幸せ、という潔いサイト名に好感を持てる。思想の問題はさておき、一週間に1〜2日たんぱく質抜きの食事することは体に良さそうだし、文化を体験することは楽しいので試してみてもいいかもしれない”
なんだか長くなってきたが、ここまでが前置きである。つまり、染料の問題にせよ食肉の問題にせよ、私たちはそれがクリーンなものでないと知っていながら、利用せざるを得ない。自動車に乗らないことや肉を食べないことは、できなくはないけど非常に選択しづらい。
このように、産業関連のプロダクトレベルでの悪事との関わりは、もはや避けて通ることはできない。そう、マクロの視点では悪事に加担しないということはもうほとんど不可能に近いのである。ヴィーガンたちのいつか報われるかもしれない努力が、しかしやはり今すぐには報われないだろうとある種の悲しみを持って推測できるように。
では一体なんの悪事に加担しないと言うのか。それはもちろんミクロな視点、個人の生き方の問題である。
ここからが本題だけれど、これを読んでくれているのは日本にお住い、もしくはかつて住んでいたことがある人がほとんどだとして、みなさんは海外でレストランやガソリンスタンドを利用したことがあるだろうか?
日本でのウェイターといえば誰もいないレストランでも姿勢を整えて直立し、ガソリンスタンドでは車が来ようものならこれぞ最敬礼といった勢いの挨拶で飛び出して出迎えてくれるけれど、海外では、そこそこいいお値段のレストランでもウェイターは私語をしてたりスマホをいじっていたりというのはよく目にする光景で、ガソリンスタンドでも(いくらセルフ式とはいえ)その辺に店員が寝っ転がっているを何度も見たことがある。小売店の店員などが「チッ、客来たよ」ぐらいの態度なことも、ままある。
日本のサービスに慣れていると、おいおい、とか思ってしまうのだけれど、よく考えたら別にそれでも食事はできるしガソリンタンクも満タンになる。日本の場合、過剰とも言える几帳面さと勤勉さでサービスの質を維持しているけれど、それほどまでに過酷な労働をしてサービス質を維持する必要はあるのだろうか。スーパーの店員さんがコーヒーを飲みながらレジを打っていてもいいし、百貨店の美容部員が暇な時間にスマホをいじっていてもいいのだと思う。最敬礼もいらないし、必要以上の敬語や接客も望まない。なぜなら、それらはなくても十分用は済むからで、誰かに不必要な努力を要求してそれらが成り立っている、という状況を私は嬉しく思わない。丁寧さや几帳面さが「美徳」であることのすべてを否定はしないけれど、苦痛すら伴う作業で過剰なものを提供する必要はないだろう。
これらは、「***みんなで渡れば怖くない」(倫理上の問題で伏せ字にしています)の理論で、全体が足並みを揃えれば変化はそう難しくないのかもしれないが、問題の核心は、これらの事柄が「労働者の努力」によって成り立っているところにある。
“安価でありながら素晴らしい質のサービスと、それを支えるための努力。”
私には尊敬する先輩が一人いて、彼の作るものはすべて非常に知的であり、良質で素晴らしい。大変に人徳があって皆から慕われ、そして大変な真面目で努力家だと思う。寸暇を惜しんで仕事をするハードワーカーで、スケジュールは分刻みのことも多い。睡眠時間を削って超長時間労働を行うので、疲れていることも多くて風邪を引きやすいが、彼の仕事に対する熱量は誰もが尊敬し、世界を少しでもよくしようとするその姿勢は人を惹きつけるものがある。なにせ親切心と愛情が底抜けにある。
だから周囲は、それにつられるように働く。彼のことを助けたいと思うし、彼にできるのだから、その何分の一かは私も努力できるだろう、と。しかし、ハードワークとしての努力は、私たちによい結果をもたらすのだろうか。人間は本来、しっかりとした休息や睡眠、余暇や娯楽、家族と過ごす大切な時間を持ってして、一人の人間として成立する。そうしたものは「贅沢」でもなんでもなく、人間の生活を構成する基本的な要素だから、全ての人がそれらの時間のために、またはその時間をエネルギー源として労働に勤しむという環境が与えられるべきだ。単純に、眠たくてしょっちゅう風邪を引いてしまう月間労働300時間の人間と、元気一杯の160時間労働の人間の、どちらがたくさんの仕事をできるかという問題すらある。
けれど、誰かの努力が「ハードワーク」という形で表れた結果、周囲の人の時間を奪うということが起きているなら、「当たり前の生活」を奪っているとしたら、それほど悲しい事は無いではないだろうか。皆が進んで仕事をし、不平があるわけでもなく、誠意と努力を尽くそうとしている。そのことが、「世界の幸せの総量」を減らしているとしたら。
もしかしたら、ハードワーク無くしてはそのプロダクトは完成することがないのかもしれないけれど、より世界をよくしようとするそのプロダクトが、たくさんの幸せの犠牲に成り立っているとしたら。
私はそれを「悪事だ」と断言したい。愛を込めて。
私が目指す「悪事に加担しない」というのは、こうした事態を目にした時に、傍観者のふりをしないことだ。私は間違っているかもしれない。私が悪事だと思う事は、実は善良そのもので誰をも不幸にしていないかもしれない。けれど、その可能性に気づいた時、例え誰かを傷つけることになるかもしれないけれど、臆面もなく、身勝手に、そして勇気と愛を持って「それは悪事だ」と伝えることに私の生き方はある。
人は本来、自分についてよく知り、自分のことを大事にし、丁寧に扱い、愛情を込めて自分に接さなければいけない。十分な休息と食事、余暇、家族との時間を楽しみ、例えそれらの全てが叶わないとしても、いつも満たされた気持ちでいるべきである。そうして本当に幸せだと思える時間を過ごしてこそ、他人を幸せにすることができる。だから身勝手でもわがままでも「それが本当に必要で大切なこと」だと思えば、周囲の反対を押し切ってでもやってみればいい。
うまくいかないかもしれないし、間違っているかもしれないけれど、そうした一粒の強い意志こそが、いつでも世界を、他人を救っている。自分のための強い意志。その誠実さは、きっと世界の幸せの総量を増やしている。何かのための行動は自己犠牲であってはならない。誰かのためを思って本気で行動する時は、見返りも求めず、自分が納得いくまでその人を助けたいと思うだろう。その時、自己犠牲ではなく本来のよりもっと強い意志の力が輝きを見せる。
人間は本来、不用意に我慢をせず、苦労をせず、自分の気持ちに嘘をつかずに生きていくべきだ。仕方ないとか、諦めるべきだとか、そうしないといけないとか、そうした言葉は自分を少しずつ不幸にしていく。自分の不幸は確実に周囲に伝染し、世界の幸せの総量を少なくする。例え善意であっても、ハードワーカーのように自分を疲弊させる行為は、本人だけでなく周囲に伝染する。だから、私はそれを目にした時には、本当に言いたいことを言う、という行為を持って対処する。
人が本当にやりたいことをやり抜き通すと言う事は、案外人を傷つけないものだ。人間は本来、人間を好んで傷つけたいとは思わないはずだ。それは動物的本能と言っていいかもしれず、私は人間に対して、言うなれば「超性善説」的な態度をとっている。
被害者や被害者の家族の気持ちを想像するという基本的な共感の能力があれば、誰かを怪我させたり死なせてしまったりしたいと思うことはないし、自分を守るための、自分の意思を大切にするための言葉は(結果的に他者と溝を作ることにはなっても)刃となって突き刺さる事はない。そこに誠実さがありさえすれば。
逆に言えば、「本当にやりたいこと」をきちんと自覚するというのは結構むずかしいことで、短絡的でなく、惑わされず、自分の深いところにまで問いかける必要が出てくる。自分の気持ちに素直になることに慣れていない人には、今もしかしたら私が驚くようなことを話しているように聞こえるかもしれない。
今年の初め、まだ正月気分も冷めやらぬ頃に友人Aから一本の電話があった。「そうだ、京都へ行こう」とどこかで聞いたことをのあるようなセリフで、とある映画がとても面白かったのでそのロケ地を巡りたいということらしい。私はその映画を見ていなかったので、急遽オンラインで視聴したのだが、私にはピンと来なかった。すごくつまらないわけではないが、取り立てて感動もなかったから、私はありのままの感想を友人Aに伝えた。そして、「映画は面白くなかったけどその事実をきちんと伝えて、けれど友人Aと一緒にロケ地を巡るのだ」と伝えた友人Bは、苦笑いをしながら「本当にありえない。頭がおかしいと思う」と言い放った。嘘をついてでも、友人Aのために楽しんでロケ地を巡れるように配慮をしろ、と。
しかし、私が映画が面白いと思わなかったことを伝える事は、本当にそれほど悪い事だろうか?言い方の問題はあるにせよ、それほど不幸な事だとは思わないし、実際にロケ地巡りは大変楽しい旅程となった。世界は多様性に満ちているので、自分とは違う色や意見に触れ合う事はとても刺激的で楽しいし、多様で万華鏡のような世界だからこそ数少ない「意見の合致」が非常に気持ちいい瞬間になりうる。だから、自分の意思を殺して他人に迎合し多様性を欠落させる事は、そこで「世界の幸せの総量を減らしている」ことになると思う。
きっと、友人Aにとっても、私の映画の感想は新しい見方であり、刺激的であり、そうだからこそ私が私であると感じてくれたはずだ。そう思ってもらえるように、誠実に意見を述べ、全力でその瞬間を楽しむことにしている。
そして、私のことを秒速で「ありえない」と一刀両断した友人Bのことを、私は好ましく思っている。なぜ本音を伝えることにしたのか、その理由を説明してなお私の態度を絶対に受け入れない彼のその意思の強さは、それも世界に散らばる美しさの一つだと思う。
なにか問題の渦中にいる人へ。
一番太い選択肢をして欲しい。細かいことに気を使わないで欲しい。末端への配慮は、中央がしっかりしていてこそなされるものだと自覚さえしていれば、無視していることにはならない。むしろ、末端を救うための太さなのだと。一番大切な情熱を最優先して欲しい。それは、人を救うこと?人に教えること?業界を守ること?自分の思想を曲げないこと?お金のため?未来の子どもたちのため?周囲にとっては、本人のそれが見えないことが不信感につながってしまう。
もっとも太くて自信があり誠実だと思える選択をなしていけば、たとえ結果がベストなものにならなかったとしても、納得のいく経過が得られるし、何よりもっとも大切なものは守れるのだろうと思う。私は、うまくやるとか、いいポジションを探すとか、最適解を探すとか、そんなことには全く興味がない。ただ本気と全力に興味があるだけだ。私はあなたの本気が見てみたい。本気を出した時に、何が見れるのか、生まれるのか。これ以上速く投げられないストレートをど真ん中に投げる、その瞬間に興味があるだけだ。
その周囲の人へ。
闇雲に、無自覚に無責任に首を突っ込むことは、悪いことではないと思う。ただ、自分が間違っているかもしれないこと、無自覚なのだろうという覚悟を持ってさえいれば。どうせ責任など大して取ることはできない。間違っていた時に腹を切るわけにもいかない。けれど魂の切り売りはできる。意志を賭すことはできる。愛と誇りを持って。
私には何もできることはありませんが、とか、だから少しでもやれることをやらなきゃ、みたいな謙虚さが嫌いだ。自分にはできないと思ったらそれは言い訳になる。自分にはできる、と思うからこそたくさんのことができる。至らないかもという可能性を見つめればよいだけだ。
さて、悪事に加担しないこと。もしくは、どう悪事に加担するか。つまるところ、それは自分の意思を曲げないことだった。人間だから、考え方は変わる。むしろ加速度的に進歩するこの世の中において柔軟さを持って生きる事はなにより大事なことだろう。けれど、その瞬間に持っているものを隠さないこと。嘘をつかないこと。見て見ぬ振りをせぬこと。その瞬間を自分なりに真面目に生きること。寝たければ寝て、走りたければ走ること。2019年は、しばらくそのように生きてみたいと思う。
“やりたいことやり、言いたいことをいう。それしかない。ただし、やり方と言い方には無限の選択肢があり、配慮がありうる。くれぐれも。自戒を込めて”
written by motoyasu yamaguchi, 2019,03