弱さとしての歴史/可能性としての強さ

この話を書こうと思った1月の終わり頃、なにやら海を隔てた大陸の方で新型の風邪が流行っているとニュースになりはじめ、そうこうしているうちに私たちはあっという間にこれまでとは違う世界に放り込まれ、できることならしたくなかった経験をし、今ではその風邪と共にどう生きるかなんてくだらないことを否応なく考えさせられている。
文字通り風邪は日本語では邪悪な風と書き、風が吹けば桶屋が儲かるよろしく、風邪が流行ればzoomが儲かるなんてことになってもいる。風は、良いものであれ悪いものであれ、ひと吹きすればその場にいた人間を(もちろん人間以外も)びゅうっとさらえてしまう。

私が弱さと強さについて考えていた1月ころよりはずっと、世の中はこの数ヶ月で私たちの脆弱性について考えるようになっていて、何か先を越されたようなしょうもない嫉妬感を覚えもしたから、久しぶりにパチパチとキーボードを叩いている。だけれども、という話だ。我々は脆弱性について、少し考えるようになったけれども。

しかしというか、相変わらず弱さのひた隠しにだけ労を賭する現状には辟易する。我々はいつから強さへの志向を禁じられるようになったのだろうか?強さ=暴力や武力という図式が頭にこびりついて離れないからだろうか。脳みそまで筋肉、という知性のかけらもない揶揄が、知性もまた暴力として働く、それもより意地悪な形で、ということをまさしく証明していると言うのに。

私たち人間はアダムとイブがリンゴを齧ったその時から、知性というものを身に纏い、それ自体が器質的な/身体的な弱さを補うものであったとまことしやかに囁かれていて、真実であるかどうかはともかくそんな感じで生きてきた。寒ければ毛皮を着て、食べられないものは調理し、食料供給が不安定とみれば米を作った。
生活空間はやがてコンクリートの塊の中へと移動し、暑くなればエアコンを炊き、ファストフードとファストファッションで身体内/外を形成し、できうる限りの環境の破壊を尽くして今ここに立っている。
私たち(の肉体もしくは精神)がもっと強ければ、未だに野山で動物を追いかけていたのかもしれない。もちろん、裸足で。今や街中を裸足で歩いていたら奇人変人の類に分類されかねないのというのに。


“今回のテーマは人。他人抜きで強くなることなど、できはしない。独りよがりのものを強さとは呼べないからだ。もとい、わたしたちは他人がいなければ生まれてすら来ない”

私たちは強くなって環境破壊をやめなければならないと言いたいのではない(もちろんやめて欲しいが)。これからも私たちは山を剥ぎ川を汚して、資源を使い尽くしながら生きるだろう。環境破壊はいけないということはずいぶん前からみんな知っているし、グレタ・トゥーンベリがstrike for climateをいくらやっても私たちはただ感心するだけで何もしないことは証明されている。その証明だけでも彼女の存在意義というのは素晴らしい。
コロナ様が猛威をふるって急速に二酸化炭素排出量が減った、今までに見たことないような晴れやかな景色が広がったといっても、排出量の基準がたかだか「2006年程度」に戻っただけで、もうどうしようもないところまで来ている。一生懸命宇宙開発をして、地球は使い捨て。そのスタンスは今後100年変わることはないだろう。本当に、「使い捨て」るまでは。そりゃ、(COVID-19というウイルスも含めた)自然も猛威を振るいたくなりますわ、という話であって。

そもそも、こうした疫病の類は太古の昔から定期的に流行るものであって、そのたび私たちは「強くなる」のではなく、知性をフル動員して「弱さを隠し」てきた。ゴキブリがあらゆる環境に適応するように進化するのとはまったく正反対なのだ。そういう生き物だから仕方なく、その点に関しては一種の諦めを持たなければならないのは事実だ。だから私たちは、「世界がより良くなるように(都合よく弱さを隠せるように)」不断の努力を続けなければならないのだと。

果たしてそうなのか。

“酒を飲んで騒いで力くらべをする。このくだらない遊びを人類はあと1000年はやれる。シンプルさを喜びに変えればいい”

問題は肉体的なところのみにあるのではない。精神と肉体はいつでも表裏一体で、肉体の脆弱さは精神の脆弱さを、精神の脆弱さは肉体の脆弱さを互いに補完しあう。

たとえば。ハラスメントという言葉が蔓延する昨今、わたしたちは「何かを守るために」必要以上の言葉狩りを強いられてきた。上司が「君きょうも綺麗だね」と言った時に、それはセクハラになるだろうか?「ねえちゃん、今日はえらく気合い入っとるな。尻でも撫でてやろうか」と言ったとき、それはセクハラになるだろうか?実は、その言葉がセクハラであるかどうかなど、本当はどうでもいいことだ。その言葉がセクハラであるかどうかではなく、その言葉が嫌かどうかを、本人が決めればいいのだ。というか、本来はそうだ。「綺麗でしょ?ありがとうございます」「今日は彼氏とデートなの!」もしくは「あんたに値踏みされる筋合いはない」「黙れエロオヤジ、自分のハゲ頭でも撫でとけ」と、どちらがいいたいか、自分で決めるだけのことだ。

つまり、言葉をどう受け止めるかどうかは個人的な問題で、そしてその言葉に不快感や嫌悪感を感じた場合にどう対応するかも、個人的な闘争の問題だ。立場や権力を笠に着て相手が抵抗できないような状況でデリカシーのない言葉を放った場合、それは当然問題になるだろう。もちろんそのようなケースも多くて、男女というだけで横たわる様々な問題はあるし、人種差別なんて肌の色だけで多数の人から「社会的に」差別されるのだから、もちろん個人の闘争が入り込む隙は少ないと言えるけれど、それでも始まりの地点は個人的な闘争である必要がある。
社会的に圧殺される場合は、自助機能として社会的に保護される必要があるけれど、それだって個人的な問題に出発点がある必要があって、個人的な問題を「社会的に」解決しようとすると、歪みが出る。誤解を恐れず言えば、過保護な状態だ。
だから今では、「こういう言葉を使えばセクハラです。やめましょう」「相手がセクハラだと思ったら、セクハラです」という、過程をすっ飛ばした過保護で無意味な結論だけが横行している。
好きな人に「きょうも綺麗だね」と言われたら、嬉しいでしょう?ストーカーに「きょうも綺麗だね」と言われたら、身震いするでしょう?わたしたちは一人一人が人間で、感情がある。各個人に彩りがあるから、各個人間にも彩りがある。広末涼子が大好きな人もいれば、そうでもない人もいる。だから感情や言葉には必ず個人というものがある程度付随していなければならなくて、それをのべつまくなし「セクハラだ」なんていうことは無意味に近い。個人的な闘争ができないからしないのか(弱体化)、できないように社会に養殖されているのか(家畜化)、めんどくさいからしないのか(怠慢)、個人的なことに時間を割くことはできないほど忙しいのか(ロボット化)、わからないけれど、とにかく個人的な感情や闘争は無視され続けている。
人によっては闘争が苦手という人もいるだろう。そんな時は、横のデスクの先輩が「○○さん嫌がっていますよ」とフォローしさえすればいよい。個人の力量が足りない時は、近くの人が助ければいい。社会として対応するのではなく、ほんの少しだけ個人の領域を広げるのだ。助けを求めることもまた、人が人として持つべき強さだろう。もちろん、誰かを助ける強さも。
現状は、そうした過程をすっ飛ばして、社会全体に漂白剤を振りかけているようなものだ。現状はそう見える。白くなり滅菌され、いっけん生きやすくなるように見えるけれど、本来は大切にしなければならない各個人がどんどんと薄まってしまう。そうなれば、何のための社会であろうか。そもそも人間は菌類がいないと生きていけないし、雨や土に汚れることもある。農作業やトイレ掃除は他の誰かがやってくれるから、しなくて良いでしょうか?ぼくはそんな社会、つまらないですけれど。
排泄も食糧生産も、非常に人間的な行為で、口からものを入れて下から出すということは本当に当たり前の不可欠な行為なのに、口の中に食べ物を運んでもらって、下の世話を全て頼んでいるような、そんな気配をセクハラ問題に感じる。箸を、スプーンを持てなくなった時に、初めてそれを頼めば良い。歩けなくなった時に、それを頼めば良い。

親子関係なんてもっと深刻で、今ではもう、親は子どものことを抑圧する装置としてしか働いていないケースがたくさんある。でも、親ってそういうものでしょうに。子どもからすれば古い人間であることは間違いなく、自分で食事をできない赤ん坊に乳をやり服を与え住まいを与え、その保護力はある時自由を奪う存在として反転する。
だから反抗期があるのだし、抵抗することで成長が生まれる。
あまり過剰な場合は、近所の人がその家族を助くべきだ。江戸時代にも毒親なんていっぱいいただろう。その場合は、長屋に住む隣の家族が、村の人々が、子どもを救う。わたしたちはみな同じ人間で、共感し、助け合って生きる。だからそれができる。東京のコンクリートの建物に一人で住むことが一番の解決策ではない。
表面的に自由を求めるのではなく、個人が、個人間が、共同体が強くなければならないのだろうと思う。社会を漂白する前に。

“自分には想像もできない仕事を、どこかの誰かが自分が生きるためにやっている。あなたの仕事も、どこかの誰かが生きるための役に立っている。その逆もあるけどね。どこかの誰かを傷つけてしまっている。でも、そうではないと信じること、信じれることをすること。”

力があるということは素晴らしいことだ。重たい米を運んで、家を作れる。暴力に抵抗できる。誰かを守ることができる。
強いものが生き残るのではない。強いものは弱いものを守れる。強さは、腕力だけではなく、精神的なものや知性でもあるから、お互いに足りないところを補える。知性は、社会に潜む見えにくい問題を顕にし、コロナウイルスのワクチンを作り、たくさんの人を救う。しかし、知性だって、暴力を振るう。より知的な人間が、そうでない人間に論理的思考で問い詰める時、それは暴力だ。知性がないことを単にバカにする社会にすっかりなっていて、本当に悲しいけれども。
パソコンの前で「世の中頭悪すぎて萎える」とつぶやいている人がいる一方で、現場では「あいつら腕細すぎて萎える。難しいことばっか言ってひとつも働かない」っていう人がいる。お互いがわかりあう必要がないなんていうけれど、そんなことはない。わかりあう必要がある。
ぼくたちは同じ人間で、会うこともないどこかの誰かがする仕事がないと生きていのだから、わかりあう必要がある。互いの生活を尊ぶべきだし、共感するべきだ。それができるように作られているのだから。

むかしの村社会だったら、それが全て目に見えるものだった。鍛冶屋のよいちどんが鍬や鎌を作って、みんなで農作物を作る。庄屋さんがそれを管理して、男は酒を飲み女は子どもを育てる(男ってダメだなあ。でも、いざという時に一線で命を張るのも男の仕事だったりするのです。戦いは、男の仕事!)。村の中で知らない人なんていなくて、それで社会が回るから、みんなに感謝もするし、互いの共通理解だって必要だ。わかりあえなくていい、なんて状況は生まれなかったろう。
いまは、産業と資本主義が発達してそれが見えにくくなってしまっているけれど、見なくていい、ということではなくて、人間としての構造は変わらないのだからきちんと目を向けるべきだ。目を閉じてまぶたの裏に思い浮かべることぐらい、誰にでもできるはずだ。私たちはずいぶん賢くなったらしいし、インターネットもあるしね。日本にいても、今のアフリカの人の表情が見れるもの。都合の良いもの以外を見ないようにするためではなくて、よりたくさんのものを見るために力を使おう。
みなさん。普段と違うこと、しましょう。デスクワーカーは力仕事を、畑たがやしてみたりとか。肉体労働者は、本を読んでみたり。ほらほら、ちょうどコロナで、そういうの流行ってるところじゃないですか。お互いにちょっと踏み込んでみよう。
多様性は弱さをひた隠しにして社会に埋没するために担保するのではなく、個人が光り輝くために必要なのだ。

“人がたくさんいること自体が、希望の光。自分だけ幸せになる、というのは語義矛盾。喜びと悲しみ、生まれてくることと死ぬことを受け入れて、これまでもこれからもやっていくのだろう”

人間は弱い存在だからこそ、不断の努力ができる。弱さを隠すためではなく、強くなるために努力ができるはずだ。誰かを助けるための、努力が。それが自分だけであっても、他人一人でも、社会全体でも構わない。誰かを助けるために強くなろう。そして、ちゃんと声を出して、助けてもらおう。
全ての人が幸せになることは、無理だろうか?そう願うのは、偽善だろうか。それは違う。願わないから、叶わないのだ。みんなが幸せになることはきっとできるはずだ。どんな願いも叶わないことはない。

わたしたちは、もっともっと強くなろう。明日生まれてくる子どものために。

コロナ禍、多くの方が亡くなっております。ご冥福を祈りますとともに、できるだけ被害の少ないことを祈っております。挨拶に代えて。

“幼き日のわたしと弟”

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